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ペットロス ~悲しむこと~

  以前、ブログにてご紹介しました野良出身の黒猫さん(男の子)が、この夏で我が家にやってきてからちょうど2年になりました。現在は推定2歳。すくすくと育ち、ガタイは大男並みの、立派なわんぱく坊主へと成長されました。

 実は、我が家にはもう一匹、同じく黒猫さん(女の子)がおりました。今年で推定14歳。女の子というより、女王様。その我が家の女王様が、7月半ばにあの世へ旅立たれました。大木のように揺るがず、気高き女王様でしたが、わんぱく坊主が来てからはよく面倒をみてくれました(実際のところはわんぱく坊主の無礼な振る舞いに憤慨していることが多かったけれど)。元気に過ごしておりましたので、突然のことでありましたが、長く苦しまずに最後を迎えることができたのはよかったかなと思っています。しかし、長年ずっと一緒に暮らしてきたこともあり、ぽっかりと穴があいたようで、改めて大きな存在だったなあと実感しています。

 幸いにも、息をひきとる瞬間まで傍にいることができ、自宅で看取りました。翌日、葬儀を行い、最後のお別れをしてきました。自然豊かな山奥に霊園があり、霊園の方が送迎をしてくださりました。女王様を傍らに、スタッフの方の運転で向かう道中、外の景色を眺めながら車内で流れている音楽に耳を傾けつつ、「いかにも悲しみに浸りましょうみたいな曲だな」と、冷ややかなことを思ったりしていました。その後は、火葬や納骨など、実感があるようなないような、なんとも言えないような気持ちのまま、最後のお別れをしました。骨上げでは、「しっかりとしたお骨ですね、綺麗に残っておられます」などとスタッフの方に言われ、「さすが女王様だな」と訳もなく得意げな気持ちになったりしました。また、大きい骨は崩しながら骨壺に入れてくださるのですが、頭の骨がなかなか崩れず、「確かに頑固だったからな」と思わず口にしてしまいました。帰りはタクシーを利用し、小さな骨壺におさまった女王様とともに帰ることになったのですが、「右にお願いします」『はい、左ですね』「次を曲がっていただいて」『ここを曲がるんですね』など、面白いくらいに会話がすれ違う運転手さんでした。なんだ?コントか?と心の中で呟きながら、なんとか自宅には辿り着きました。

 

 改めてこの日のことを思い返すと、たしかに悲しく、つらい気持ちではあったのですが、どこかくだらないことばかり考えていました。「大切な女王様のはずなのに」と自身の薄情さを感じていましたが、心が私を守るために一肌脱いだのかなと思い始めました。

 人は大切な存在を失った時、その悲しみをモロに受けてはなかなか立ち上がることができない、ということがありますが、それを防ぐために無意識的に防衛作用が起こります。つまり、この防衛作用がくだらないことを気にさせ、そのおかげで悲しみから距離をとることができ、悲しみに耐えることができたのだろうと思います(そう思うと、話の嚙み合わない運転手さんに助けられたところもあったのかもしれません)。

 

 女王様が旅立ってからひと月が過ぎようとしているこの頃、漠然と寂しくなったり、ちょっと後悔もしたり、そうかと思うと忙しなく気に留めない時もあったり、とは言いつつ、ひとりになってしまったわんぱく坊主の暇そうな姿を見てまた思い出したり…悲しみから逃げたり、向き合ったりしながら過ごしているように思います。

 人は悲哀の過程を通して、心の中で失った存在とのかかわりを整理し、やすらかな存在として受けいれていきます。これらは人にそなわった自然な心の営みであり、自然の流れに心をまかせることが大切なようです。しかし、さまざまな感情が行ったり来たりする過程でもあり、時にはこの営みが立ち行かなくなることもあります。喪失体験をすると、人は旅に出たり、悲しみを共有できる音楽を聴いたり、作品を観たりすることも多いかと思いますが、これらはすべてこの悲哀の機能を回復させる工夫のようです。

 私はいまのところ特別なことをしているわけではありませんが、時間の流れに身を任せて、毎日を粛々と過ごすこと自体が何よりの作業であると感じています。女王様が私の心の中におさまる日まで、焦らず、のんびりと。

 

(そうえいば、わんぱく坊主が大はしゃぎしている時、冷たい目で見ていたなあ。下々の者を見る顔。まさに女王様。暮らしの水準は同じなのに…)

 

Y.Y.

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